メッセージ

 人は宗教や信仰に接した時に、こう尋ねるのではないでしょうか。「結局のところ、それはいったい何が良いのか。」もっと率直に言えば、「何がもらえるのか」。キリスト教信仰において、神は私たちに何をくださるのか。この問いについて、パウロはとても魅力的な答えを出しています。「宝がもらえるのだ。私たちは神から宝をいただいているのだ。」「私たちは、この宝を土の器の中に持っている。」この「宝」」が意味しているのは、「イエス・キリストのいのち」です。「イエスのいのちがこの身に現れるためである」。「イエスのいのち」、イエスが生きられた、そして今も生きておられるそのいのちの有様を私たちもまたいただいて、そのいのちの有様に基づきそれに従って、私たちもまた生きることができる、それが「神がくださるもの」であり、この上ない「宝」なのです。
 このことの不思議さは、その私たちがどのような者であるかということを考えるとわかります。私たちは「土の器」なのだとパウロは言い表わします。「私たちはこの宝を土の器の中に持っている。」弱く、壊れやすく、価値も低い器。そこには、人間本来の弱さや限界が示されているでしょう。明日のことはわからない、いつ病気やけがをするかわからない、些細なことで気持ちが沈み心が傷つく、そしてついには誰もが避けようもなく死を迎える。私たちは「鉄の器」でも「金銀の器」でもありません。「土の器」なのです。
 「土の器」でしかない私たちに、神はこの「宝」、「イエスのいのち」を与え、この私たちの中に置いてくださったのです。「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方に暮れても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」このような「いのち」をほしいとは思われませんか。このような「いのち」こそ、まさに「宝」ではないでしょうか。パウロは、この「いのち」が、この私たちを通して、このように現れるのだと語ります。