メッセージ

  

~本日のメッセージ「放蕩息子のたとえ」~ 池山好明

 このたとえ話の主題は、放蕩に身を持ち崩した息子がわれに返って父のもとに帰った話ではありません。この話の主題は、息子を待ち続ける父にあったのです。20節、父親はまだ遠くに離れていたのに息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻しました。「憐れに思い」という言葉は、「はらわたが引き裂かれる痛み」という意味で、本来、この言葉は神だけにしか使われていません。失われた息子の帰りを、はらわたが引き裂かれる痛みをもって待ち続けた父、子のたとえ話は父の喜びであふれています。
 なぜ父はあふれんばかりの喜びを表したのでしょうか。理由はただ一つ、24節「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」この喜びに満ちた父の姿は父なる神の姿であり、同時に教会を表しています。父なる神は私たちのために祝宴「礼拝」の席を用意していてくださるからです。