メッセージ

  

~本日のメッセージ「ぶどう園のたとえ」~澁谷和美牧師
ルカによる福音書20章9―19節
もうすぐ今年度も終わります。2022年度の標語と聖句は「御言葉に生きる」ヨハネによる福音書15章5節でした。毎週週報の礼拝式次第を見る時、その上に記されている標語とみ言葉が目に入ります。今回始めて気づきました。み言葉は15章7節、8節であったのだと(笑)。
無牧師の間、主に信頼し、毎週の礼拝のための講壇花、奏楽、パワーポイント、そして説教を準備してくださった教会員がいたからこそ、教会が続いてきている。礼拝出席者も含めて、主に繋がり続け祈り、願い求めて来られたからこそ、今があるのでしょう。背後の地方連合の皆さまの祈りと協力も忘れることはできません。「願いなさい、そうすればかなえられる。」かなえると言われる主がおられることを感謝したいです。私(澁谷)の祈りと教会の祈りが違う方向から一つに合わさって、新しい歩みが導かれました。主のなさることの不思議です。 
さて今日は「ぶどう園と農夫のたとえ」のところです。エルサレム入場後、イエスは神殿内で活動を始めました。多くの民衆が彼の話に夢中になった。すでに神殿体制派はイエス殺しを目論んでいた。彼らはイエスに聞いた、「何の権威でこのようなことをしているのか。(20:2)」と。彼ら自身がこの場で教える権威をいただいているものだと自負していた。
イエスはここで今日の譬えを民衆に話した。大きなぶどう園を経営する大土地所有者が、収穫の時になって僕たちを送り収穫物を持ち帰らそうとした。農夫たちは僕が来るたびに暴力を加え送り返した。ついに、所有者である主人は自分の息子を送った。なんと農夫たちか跡継ぎの息子を殺し、農場乗っ取りを企てた。イエスはぶどう園の主人はこの後どうするだろうかと、問いつつ、その顛末を話した。マタイ、ルカ、マルコの共観福音すべてに乗っているこのたとえ話は、主人が神、僕が預言者たち、息子がイエス、農夫たちが神殿体制派の人たちとなり、イエスの受難の予告とその後の新しい神の国樹立と神の裁きの暗示がある。神殿体制派は自分たちへの当てつけの言葉として受け取ったが、イエスに手を下すことはできなかった。民衆を恐れた。