メッセージ

  

~本日のメッセージ「最後の晩餐」~澁谷和美牧師
ルカによる福音書22章14―23節
22:15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
今まで何度イエスと弟子たちは共に食事をされたことだろうか。共に食事をするということは、「あなたは私の仲間です。」という信頼関係の徴である。イエスはご自分の感情を隠されなかった。腹の底から泣くこともあり、怒ることもあった。きっともっと豊かな表情を弟子たちの前に見せておられたのではないだろうか。そのような人間イエスのお姿を彼ら弟子たちは見ることができなくなる。
「苦しみを受ける前に」共に食事をして伝えることがあると言われた。
弟子たちはイエスの言葉と姿を通して、今はその意味のすべてわからないが、その目に焼き付けた。イエスの十字架の上で流される血潮、人々のためにささげられる十字架の死。イエスの体であるパンと流される血による新しい契約の杯は、今も続いてその意味を受けとり続けている。イエスはすでに弟子との別れの覚悟が出来ていた。しかし、其れでもイエスはオリーブ山で神にひざまずいて祈った。 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔22:42〕
過越しの食事は、イエスにとって必要であった。しかし、イエスに取り残される弟子たちにとってこそ必要であった。食事の席にはご自分を裏切るユダがいた、「人の子を裏切るその者は不幸だ」。師を裏切る彼の不幸をもイエスは哀れまれた。泣いている。彼もまた苦しみを受けるのである。
イエスにとって文字通り最後の晩餐であった。「神の国で過越が祝われるまで、決して過越しの食事はとることはない。」「神の国が来るまで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」とのイエスの言葉には、十字架に向かう強い覚悟がうかがわれる。
イエス様のこの苦難の十字架がなければ、すべての人の前に神の国の到来はあり得ないのだ。
イエスがしてくださった犠牲の死を最後のものとなるように。誰かのため、何かのために死ぬことが決して正当化されない世界を造っていこう。