メッセージ

  

~~本日のメッセージ「イエスと共に十字架につけられた二人」~澁谷和美牧師
ルカによる福音書23章26―43節
 棕櫚の主日を迎えました。本日より受難週に入ります。
今日のところ、イエス様が十字架につけられる箇所です。場所は「されこうべ」と呼ばれているところ。十字架上のイエスの隣には二人の犯罪者が共に十字架につけられた。イエスを見つめる民衆、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」とあざ笑う議員たち。ローマ兵士たちの「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」との侮辱の声。
イエスの隣にいる犯罪人の一人も声を上げた。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とののしった。これ以上ないほどの言葉をかけられるイエスであるが、イエスご自身は我が身を十字架にかける人々の赦しを神に願った。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 その言葉は現在を生きる私たちへの言葉のように響く。救われてもなお、何をしているの分からない、弱く愚かなものである私たちにとってイエスは時を超えて今もなお執り成してくださっている。
イエスのそばにはもう一人の犯罪人が十字架につけられていた。彼は十字架刑を自分自身にとって当然のものとして受けていた。そしてイエスのことを知っていた。「この方は何も悪いことをしていない。」 彼は分かっていたのである。そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と救いを願った。イエスは彼の言葉を確かに受け取って言われた。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」罵声と罵りの声、この世の時(クロノス)の狭間で神の時(カイロス)が二人を包み、肉体の死の間際における救いの出来事が起こった。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(19:10)」アーメン。
イエスの救いの出来事はどこで起こされるのか、私たちにはわからない。それゆえに、イエスを知らない人々との出会いの時に祈りつつ神の時(カイロス)を待つのである。