メッセージ

~本日のメッセージ「正しいものは一人もいない」 ~澁谷和美牧師
ローマの信徒への手紙3章9節~20節
「正しいものは一人もいない」という言葉はその視野がユダヤ人だけでなく、異邦人も含むすべての神が創造された人間に対して、その内面性の罪深さを語る。それゆえに、神の子であり、人間であり、神の契約関係にある選びの民に属するユダヤ人であったイエスの十字架の死が必要であった。罪なきものであるイエスの罪の贖いとしての死が、人間をして神の前に罪許され神の前に立ちうるものとされた。
 すべての人が神の前に罪ある身であるとは、ユダヤ人は割礼と律法遵守による救いの契約が与えられていたが、すでに契約はあっても、神の律法を形骸化し、その中身において破綻をしていた。それは律法を守り切れないという現実にユダヤ人は直面していた。
そして、異邦人は命の創造者である神の存在を認めることなく、他のものに生きるよりどころを求めて生きていた。
 ユダヤ人、異邦人共に神の前には義なる存在としては認められない者であった。それゆえにパウロは人間が神の前に義なるものとして立ち得ないことを、「正しい者は一人もいない(3:10)」と旧約聖書の言葉(詩編14章1~3節、コヘレト7章20節)を引用してローマの信徒たちの前に示している。
 「ユダヤ人もギリシャ人(異邦人)も皆、罪のもとにある。(3:9)」とはアブラハムからの救いの契約をいただいたユダヤ人にとって、割礼を受けた者しか救いに与れなかったユダヤ社会から起こったイエスの救いの出来事に優位性を持ちたいところである。しかし、ユダヤ人であるパウロ自身がきっぱりと否定しているのである。
 この後パウロは彼の神学を更に手紙の中で展開していく。彼の持論である信仰による救い(信仰義認)だけでなく、ユダヤ人の優位性は否定するものの、神のユダヤ人への選びの行為(神によるアブラハムとの祝福の契約)については否定することなく残っていることを認めている。
  2000年の後にあっても神の愛と慈しみは私たちの上に一瞬もやむことなく注がれている。その恵みに与る私たちも神に応答して歩みたいと願う。