メッセージ

 

~本日のメッセージ「望まない悪を行うわたし」 ~澁谷和美牧師
ローマの信徒への手紙7章13節~25節
 パウロはイスラエルの神が与えた律法を行うことに誰より熱心なユダヤ教のラビ(教師)であった。今はイエスの救いに与り、使徒として働いている。彼は救われてもなお、自分の罪について徹底的に見つめている。罪の自覚は、与えられた規範を守ろうとするとき、明らかになる。私は善人だ、よい人間で悪いところはないと思っている人間は罪の自覚を持ちえない。しかし、神を知り神の前に罪に向き合うとき、自分自身の罪の大きさに気づかされる。
ロマ3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。」
すべての人が罪びとであるとパウロは語る。そこに人は悔い改めとイエスの十字架の死による罪の赦しの恵みを自覚するのである。
すでにキリスト・イエスの許しと救いとに預かっていても、なお罪を犯し続けるみじめさ。
ロマ 7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってく
れるでしょうか。
パウロはすでにイエスの愛の行為(十字架の死)により許しをいただいているが、自身の罪深さにさらに気づかされるのである。神が与えた律法を行うことも出来ず、神の戒めさえ守れていないものは、すでに救われる道はない。救われて神の恵みに応えたいと思ってもできない。しかし、そのようなものが、イエス・キリストによって救いをいただいており、復活の約束もいただいているということは、ただただ感謝しかないのである。
ロマ7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
心では神に、肉においては罪に支配されている、無力な自分自身であっても、神ご自身が愛の中に入れてくださっている。パウロはあえて自分自身のことを語り、人間の持つ罪の自覚が神の救いを経験する前もまたその後にあっても必要であることを教えているのであろう。