メッセージ

  ~「私たちのとがのため」 ~澁谷和美牧師
イザヤ書 53:1―8(p1149-1150)
  本日の聖書箇所は主の僕の歌第4番目、最後のところです。主の僕は主が油注がれたペルシャのクロス王の支援のもとバビロン捕囚からの解放、エルサレムへの帰還を予言し、共に帰還の途に就くように人々を説得して回りました。
「わたしは」と一人称で語られていた僕の歌が第4の歌では「彼は」に代わり、「わたしたちは」との言葉が繰り返し出てきます。主に立てられた僕の働きは意外な結末を迎えました。神の召命を受け、立てられ「母の胎にある時から」選ばれたと語るほどに神の期待にまっすぐに応えていきました。しかし、主の僕は見る影もなく惨い姿で人々の前に現れました。言葉で言い尽くせない驚きをもってその姿を見た人たちは神によって裁きを受けた、病の人の最後と受け取りました。そして彼の働きを誰も顧みることなく忘れ去られたようです。人々は彼の死の意味を知ることはできませんでした。
神は新たな口を用い、語らせるのです。彼の病と悲惨な死は、イスラエルの民のためのものであったことを。彼の死によってイスラエルの民は無事帰還し、故郷で新たな生活を始めていくことができた。
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
人々に理解されることもなく、罪びととして十字架にかけられたイエスの死を弟子たちは苦難の僕の姿に重ね合わせ、その死の意味に気づかされていったのです。